田中芳男(たなかよしお)って知っていますか?博物館の父

ども、はじめまして。
そして、こんばんは。
しんまいです。

日本の博物館の父」と呼ばれた
田中 芳男(たなか よしお)さん、
をごぞんじですか?

ワタクシしんまいは、
田中 芳男(たなか よしお)さんの名前は、
メディアファクトリー新書
から発売されている
モリナガ・ヨウ
さんの
東京大学の学術遺産 捃拾帖(くんしゅうじょう)

で初めて知りました。

それをきっかけで、
調べてみました(^-^;

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田中芳男さんとは

出典:Wikipedia

田中 芳男(たなか よしお)さんは
1838(天保9)年8月9日に
信濃国伊那郡飯田
(現:長野県飯田市)
医師の田中 隆三
三男として生まれました。

伊那郡も調べると、
幕府直轄地があって、
それを預かっている旗本がいたりと、
結構ややこしい(苦笑)

1856(安政3)年頃に
名古屋の儒学者のもとに遊学。

翌1857(安政4)年には
尾張藩の御典医で
また本草学者でもある
伊藤 圭介(いとう けいすけ)に師事します。
伊藤 圭介は、シーボルトの弟子で当時55歳。
田中 芳男19歳

遊学を始めた頃から
捃拾帖」を
作り始めていたようですね。

1861(文久元)年に
幕府の蕃書調所
物産所が設立されました。

蕃書調所(ばんしょしらべしょ)とは…
幕府直轄の洋学研究教育機関で東大の前身です。
蛮書和解御用(1811年)→洋学所(1855年)→
蕃書調所(1856年)→洋書調所(1862年)→
開成所(1863年)→一時閉鎖→
開成学校(1868年)→医学校→東京大学
と名前を変えていきます。
なんだか出世魚みたい(笑)

そこの教師として
師匠の伊藤 圭介(いとう けいすけ)が登用され、
弟子の田中 芳男(たなか よしお)上京

そして、
伊藤 圭介(いとう けいすけ)のお供でしたが、
再来日していたシーボルト
会っています
シーボルト息子のアレクサンダーにも会ってます。

同時に
医師の緒方 洪庵(おがた こうあん)から
薬草園の管理も任されていたようです。
緒方 洪庵(おがた こうあん)は、
大阪で適塾(大阪大学の前身)を開いていて、
有名な弟子は、
大村 益次郎福沢 諭吉大鳥 圭介
橋本 左内佐野 常民高松 凌雲
そして、
手塚 治虫のひいじいちゃんである手塚 良仙も!!
まだまだ、いっぱいいます
Σ(゚口゚;)//

この間に
師匠の伊藤 圭介(いとう けいすけ)
帰郷してしまい、
田中 芳男(たなか よしお)は、
後任として教師になります。

田中 芳男(たなか よしお)は、
1867(慶応3)年

パリ万国博覧会に出展するため
幕府から相模、伊豆など周辺の
昆虫採集及び標本作り
命じられます。

調べると
主催国であるフランス政府から
「日本の昆虫標本の出品依頼
があったようですね。

そして、
パリ万国博覧会
江戸幕府の一員(標本の保守係)
として参加しています。
代表は、
将軍徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)
名代として異母弟の


徳川 昭武(とくがわ あきたけ)
当時14歳でした。

この使節団には
NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である
渋沢 栄一も参加していてるので、
もしかしたら、
田中 芳男(たなか よしお)さんも出てくるかも!?
しれませんね。

このパリ万国博覧会は、
いろんなエピソードあって、
それはまた別の機会に

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1886(慶応2)年12月10日に
品川を出発して、横浜へ。
横浜港から船で
香港、シンガポール、
セイロン、アラビアを
廻ってスエズに到着。

スエズからは汽車で
エジプトを通って、
ヨーロッパに入りました。

徳川 昭武(とくがわ あきたけ)を含む
エライさんたちは、
パリ万国博覧会後も
ヨーロッパに残りましたが、
田中 芳男(たなか よしお)
1867(慶応3
)年10月に帰国
このときフランスから
サボテンを持ち帰っています。
ちなみに大政奉還
この年の10月14日です。

この渡仏で
田中 芳男(たなか よしお)は、
博覧会はもとより
自然史博物館や動物園などを知り、
今後の人生に
大きな影響を与えました。

大政奉還によってエライさんたちが、
ヨーロッパでアタフタする話は、
渋沢 栄一の伝記や伝記マンガなどで
必ず出てくるエピソードですね。

あと、元号が明治に変わるのは、
もう少しあとで
翌1868(慶応4)年10月23日です。

新政府では
田中 芳男(たなか よしお)
開成所の御用掛になり、
理系教育施設である
舎密局(せいみきょく)設立のため
大阪に赴任。
この舎密局(せいみきょく)は、京都大学の前身です。

東京に戻ってからは
町田 久成(まちだ ひさなり)とともに
博物館の創設を提案。

1872(明治5)年3月10日に
湯島聖堂で
国が主催となった
日本初の博覧会
(湯島聖堂博覧会)を実施。

この博物館は
1875(明治8)年に、
上野へと移り
東京国立博物館になります
初代博物館長は町田 久成(まちだ ひさなり)

1873(明治6)年の
ウィーン万国博覧会や
1876(明治9)の
フィアデルフィア万国博覧会では
政府の代表メンバーの一人でした。

1875(明治8)年には、
博物館、動物園などをもつ、
上野に博物館・動物園の建設に尽力
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)
上野動物園の設立への筋道を
築いたのです!!

その後は
元老院議官や貴族院議員、
東京農業大学の前身にあたる
東京高等農学校の初代校長
などを歴任。

1915(大正4)年12月1日には
男爵を叙爵。

しかし、約半年後
1916(大正5)年6月22日に
東京市本郷区本郷金助町
(東京市は、誤字ぢゃないですよ。
昭和18年まで存在していた行政区です。
23区の前身。)
亡くなりました
享年77歳
死因は、胃潰瘍と言われています。
墓所は谷中霊園にあります。

東京大学総合図書館が所蔵している
田中芳男・博物学コレクションを
以下のサイトで公開されています!!

https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/tanaka/page/home

捃拾帖(くんしゅうじょう)とは

捃拾帖の
」も「」も意味は
ひろう」なのです。

本草学では、
結構メジャーなことらしく、
フィールドワークの一環として
貼り交ぜ帖(今のスクラップブック)を
作っていたようです。

こんなに貼って、
資料として東京大学図書館
保管されてる方は
田中 芳男(たなか よしお)さん
だけでしょうね。

そんな『捃拾帖』は96冊
+『外国捃拾帖』もあります。

そして、
『捃拾帖』の第11帖には
長崎下りカンカンノウケン

そう、それは
古典落語『らくだ』の中に出てくる
「かんかんのうけん」の歌詞が!!

しかも!!
振り付け付きで載ってるのです!!

『捃拾帖(くんしゅうじょう)』は
以下のサイトで
電子展示として公開されいます!!

https://kunshujo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/

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まとめ:田中芳男の功績

普段よく見る分類の
「綱・目・科・属・種」
を訳したのも
田中 芳男(たなか よしお)
なのです!!

田中 芳男(たなか よしお)
した日本最初(一部紹介)
・鉛筆を日本に紹介
リンゴの接ぎ木
オリーブの栽培
・コーヒーの栽培
金鯛の剥製
・サケ・マスの人工孵卵
・品川沖で真珠の放養
(のちに志摩に真珠貝の養殖場を作らせる)
・コンクリート造りの自邸
などなど

凄い人なのでした!!

作家の志川節子さんによる
田中 芳男(たなか よしお)
主人公の小説

博覧男爵』が
祥伝社より発売されてました!!

帯を見る限りでは
国立博物館設立への話が
メインなってるのかもしれませんね。
読んでみないと!!

これを機に
ドラマ化とかされないかしら?

ワタクシしんまい
の文章を
最後まで
お読みいただき
ありがとうございました。
田中 芳男(たなか よしお)
興味を持っていただけたでしょうか?
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