天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)ってだれ?戦国IXAの追加武将

ども、はじめまして。
そして、こんばんは。
しんまいです。

戦国IXA(イクサ)で
2020年7月2日に
追加武将カードが発表されたのですが、
その中の一人
天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
っていう、戦国武将をごぞんじですか?

ワタクシしんまいは、
まったく知らない武将で、
天徳寺?
お寺の名前だから、

毛利家の外交僧だった
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)みたいな?
と思っていたら、全く違いました(笑)

そんなわけで
天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
について調べてみました。

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天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)ってだれ?

天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
もしくは天徳寺了伯/了白(てんとくじりょうはく)は、
下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)の武将で
佐野房綱(さのふさつな)とも言い、
佐野家18代当主です。
関東地方の武将だったのですね。
ワタクシしんまいの出身でもないし、
「古河公方」や「堀越公方」などの公方がいて、
そのへんのことがイマイチよくわかってないから
あまり詳しくないんですよね…

一般的には、佐野房綱で知られています。
Wikipediaさんでも
某戦国シミュレーションゲームでも
佐野房綱で載っていました。

1558(永禄元年)
下野国の戦国大名で
唐沢山城城主である佐野 泰綱(さの やすつな)
の次男として誕生。異説あり。
泰綱は、連歌師宗長を迎えて、
連歌会を催しているそうです。
兄は佐野 昌綱(さの あきつな)

佐野家は、
藤原北家秀郷流の足利氏です。
藤原秀郷については、下記で。

唐沢山城は、
北条家と上杉家との領地の境目に位置し、
なかなか難しい領地経営を強いられていました。

1560(元禄3)年
2歳で東明寺で剃髪し、
号は天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)
満願寺で修業したそうです。

また、
剣聖としても有名な
塚原卜伝(つかはら ぼくでん)
出典:鹿嶋市ホームページ
佐野家に立ち寄った際に
師事したらしく、
剣豪法師として知られています。
文武両道だったのですね。

経歴としては
兄である佐野昌綱に仕え、
その兄が亡くなった後は、
兄の子(甥)である
佐野 宗綱(さの むねつな)に仕えます。

宗綱の頃には、
佐竹氏や織田信長
誼を結んでいたらしく、
信長が本能寺で斃れた後は、
家臣の滝川 一益(たきがわ かずます)らとともに
北条家と戦っています。

1585(天正13)年元旦に
佐野家に事件が起こります。

佐野宗綱が、
北条方の敵将
長尾 顕長(ながお あきなが)の挑発に乗り、
単騎で突出したところを
鉄砲で撃たれ落馬
そして、討ち取られてしまったのです。
長尾 顕長(ながお あきなが)山姥切国広を所持。

佐野宗綱には、
こどもがおらず、
後継ぎ問題が発生!!

どこから養子を貰うかで内紛!!

「北条氏康の六男北条氏忠」派

佐竹義重の息子」派
に。

天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
佐竹派。

しかし、
17代城主は北条家から。

北条 氏忠佐野 氏忠に改めます。

これに嫌気がさして、
天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
出奔し、諸国を廻ります
これにも異説があって、
宗綱の時代には出奔してた説など、
わかっているのは、
豊臣 秀吉の知遇を得ていたことです。

1590(天正18)年
豊臣 秀吉による小田原征伐では、
佐野家はもちろん実家の北条方に付きます。

北条が滅んだあと、
秀吉の旗本となっていた
天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)は、
小田原征伐で軍功を上げたことで、
佐野領3万9千石を安堵され、
同年8月に唐沢山城に戻り、
佐野 房綱(さの ふさつね)に改名し、
18代当主となりました。

3年後の1593(文禄2)年
秀吉の寵臣で奉行衆の1人
富田 知信の五男(異説あり)
富田 信種(とみた のぶたね)
養子として迎え入れ、
名を佐野 政綱(さの まさつな)と改めさせて、
家督を譲り隠居
のちに、秀吉より「吉」の字を貰い、佐野信吉に。

京都伏見では、
天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
当主の信吉よりも
大きな屋敷を与えられていました

1601(慶長6)年
54歳?で死去。

遺言により、報恩寺に埋葬。
出典:報恩寺

上記の墓塔は
1750(寛政3)年の150年忌に
遺徳を偲んで旧臣の子孫が建てたそうです。

ちなみに、
佐野信吉は、
関ヶ原合戦では
徳川家康側の東軍に付いたので、
佐野藩は安堵されてます。
父の富田知信は奉行衆でしたが、石田三成とは不仲だったそうです。

しかし、それが不幸に。。。
江戸で火事があったので、
佐野から急ぎ駆けつけて消火作業

信吉グッジョブ!!
と褒められると思いきや、
豊臣家に縁深い大名が、
江戸の変事にすぐに気付いて
急行できる場所に存在なんてキケン!!
って認識されて、
兄の改易に連座して、改易
佐野藩は幕府直轄領に。

天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)が頑張って、
存続させた努力は水の泡に。。。

だから、知名度が
そんなに高くないなのかもしれませんね。
けど、今回の追加を機に
全国レベルで知ってもらえるようになると
嬉しいのですが。

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戦国IXAにおける天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)の初期ステータス

カードNo.5197
レア度: 序
コスト: 2
HP: 100
指揮兵数: 1770
兵法: 390 (LvUp加算量:1.5)
攻撃力: 490 (LvUp加算量:18)
防御力: 450 (LvUp加算量:17)
槍兵統率: C
弓兵統率: B
騎馬統率: C
兵器統率: E
スキル名: 弓隊進撃
作家名: ヤマザキミコ

藤原 秀郷(ふじわらの しげさと)とは

出典:Wikipedia
藤原 秀郷(ふじわらの しげさと)

平安中期の武将で
天慶の乱にて平貞盛と協力し
平将門を討った人物です。
藤原北家の方です。
北家とは、藤原四家の一つです。
藤原鎌足の息子である
藤原不比等の子ども4人が
興した家のこと。

別名:俵藤太/田原藤太(たわらの とうた/とうだ)
ちなみに藤太は、藤原氏の長おさ、太郎の意味だそうです。

下野、武蔵守などを歴任し、
佐野家の居城となる
唐沢山築きました
(現在の唐沢山神社が城の跡地)

958年、または991年に没した秀郷は
東明寺に葬られたとされ、
この古墳が秀郷の墳墓と伝えられている。

出てきました東明寺!!
天徳寺 宝衍(てんとくじ ほうえん)
剃髪したお寺ですね。

ちなみに東明寺
1617(元和3)年に廃寺になりました。

その理由というのが、
徳川家康の遺体を
日光東照宮に向かう途中、
近くの寺に運ばれ、
近隣の住職に召集がかかったが、
遅れた参集しなかったため
と言われています。
つくづく、徳川家と相性が悪いですね。。。

ワタクシしんまい
の文章を
最後まで
お読みいただき
ありがとうございました。

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